くそみたいなわたしの case14


これでよかったんだ。

そう思えるような、いまのこの満たされた気持ちがとてもうれしくって、それが他ならぬあなたのおかげなのだって思えることが、なによりも尊い。

わたしが生きてきた道の、長い長い荒れた地面が、今では懐かしく、あの苛立たしい土ほこりがいとおしい。

苦しくて逃げ出したかったあの頃、倒れながら、血と涙を吐き出しながら、前に前に足を運んだわたしを、何万という規模のエキストラを雇って盛大に祝ってあげたい。

「ありがとう!!!」「ありがとう!!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「よかったね!!!」「よかったね!!!」


あきらくん。

あきらくん。

きみだ。

きみなんだ。

きみとここまでこられたからなんだ。

ほんとうに、ほんとうにそうなんだ。


何か食べたいものはあるかい?
どこか行きたいところは?
何がほしい?

叶えたい。
それを全部。
叶えたい。

モアイ山に残すしるし case13


「……さむ…」
「ね。もう帰ろうよ」
「ん…だね」


モアイ山にお日様が隠れるまでは、ふたりの時間。

そういう約束をした。


おたがいの名前もしらない、11の男と女は、放課後いつも、この場所で夕日を見た。


体育館ほどの広さの、いまでは、鉄と油の臭いのする、廃棄物の放置場になってしまったグラウンド。

その脇に、どこの誰が育てているのかもわからない、トマトのビニールハウスがある。


横木が2本抜け落ちている、木の梯子をのぼり、左右の棟の間に渡された、アルミの溝を足場にする。

西陽に向いて、左が女、右が男。

これも、はじめに約束をした。


ふたりは、7日の間、毎日ここで過ごした。

まず、男が、親の短期の転勤にくっついてきて、1ヶ月だけ滞在するために、この水沢の村へ引っ越してきた。

その3週間後に、女が、同じ理由で越してきた。

重なった7日を、共に過ごすことは、半ば必然的であった。


全校生徒18人。

5年の歳の子は、ひとりとしておらず、この年このふたりのいる間にだけ、5年生を迎えた。


学校になじめず、ビニールハウスの上で空を見つめる男の影に、女が気づき、声をかけた。

なにを話すでもなく、同じ夕日を見続ける。

半月後には、赤の他人となる同級生と、心を通わすことに、どちらも恐れを抱いていた。


幼いながらに、別れを恐れ、傷つくまいと、必死に言葉をつぐんだ。

“友人を作りたくはないけれど、ひとりではいたくない”

両人の利害が一致したのだ。

それだけを満たす、大切な、大切な他人であった。


先に転校してきた男が出立する前の日。

幼い男女は、静かに、最後の約束を交わした。


「30になった秋に、『さいごのないひと』とめぐり逢えていたら、モアイ山のてっぺんに、しるしを残そう。それで、ぼくたちは、いちばん知りたいことを、お互いに伝えることができる」




…約束の年を、来年に迎える男女が、1つの屋根の下に、暮らしている。

男の名は“あきら”

女は“色音”という。


両人は、両人が誰であるのかを知るための記憶を残しておらず、また思い起こしても、それが彼で、それが彼女であると、知ることはない。


来年の秋。

どちらかが、「水沢に行ってくる」と言う。

そして、「自分もそこに用がある」と返す。

ふたりが、同じ村の、同じ山のてっぺんに、“しるし”を残す、その時に、両者の記憶の、彼と彼女が、男と女であると気づく。


モアイ山の口元は、今日もうっすらと笑みを浮かべ、陽を隠し、身を隠す。

あなたが何を持っていなくても case 12


 「私ね、あきらくん。あなたを好んでいることと、あなたのえがくものに親しんでいることは、別の感情なの」
「……もう少し頼むー」
「んっと。好きな歌手さんの歌は好きだよ。だけど、それが、歌手さんその人を好ましく思う理由には、なり得ないの」
「解した」
「君が私を好んでくれるのは、私のイラストが好きだから?」
「んーんー。関係ない」
「ね」
「うん。ただ、色音たんのイラストを好む理由の方には、君への好意が少なからず影響しているよ」
「わかるよ。好きな人の、生み出すものも好ましく感じる気持ちは、よくわかる。私は、生み出されたものを好む気持ちが、心を占めてしまって、盲目に、生み出した人の精神をも好んでしまうという種類の人たちに、理解を示せないの」
「外見的な魅力に心を奪われて、内面の質の是非を問わずに好んでしまうような。そんな安っぽい感情のことだね」
「……結構、強めに言うんだね、あきらくん」
「うん。僕も理解を示せないから。そういう価値観の人たちには」
「それだから、安心できるのかなあ。あきらくんが抱いてくれている好意の目は、ありのままの私を捉えてくれているんだって思うから」
「そうだよー色音ちゃん。君が、どれほど美しい絵を描こうが描かまいが、世界中を魅了する声を持っていてもいなくても、何百万のファンに囲まれていようがいまいが、それにわずかほども影響されない好意だよ。君が誰にも愛されていなくって、誰からも疎まれる人であっても、関係がないんだよ。誰かと比べたり、他人の評価を基準にして、君を好んでいるわけではないんだから」
「……最後の例えは、なんかちょっとひどくないかなあ……」
「うええ?」
「や、誰からも愛されず、みんなに嫌われててもっていうくだり」
「……っ。 たとえだよっ……! 嫌われてなんかないよ! 大丈夫だよお〜……」
「愛されてもないの?」
「僕が愛してるよっ……」
「…………。っ…………」
「……あ…………。待って今のはなし……」
「…………え……。え? な。なし……」
「ん違っ……う……! …………あり……」


 これ以上言葉を交わすと、なんだか心がぐちゃっとなってしまう気がして、2人は口をつぐんだ。
 先に色音が目をそらし、一瞬の沈黙の後に、背を向けた。ご飯どきでもないのに、台所へ向かおうとする色音の背中を見て、あきらは少しの音も立てず、タンポポの綿毛を包み込むように、優しく、両の腕で、色音の体を抱き寄せた。
 色音は、頭頂部に、あきらの湿った息を感じて、恥じらいながら目を瞑った。
 あきらにそれは目視できないが、色音が応じてくれたことを、何を見ずともわかっていた。首を少し前に傾け、色音の右の頬に、左の頬をあて、わずかに腕の力を入れて、抱きしめた。
 色音の体の力が、抜けた。
 一切の音が消えたように、部屋の空気は静まっている。心地よく耳に触れる音は、お互いの吐息だけである。
 長く短い静寂が、終わりを迎えた。

 「…………ほんとう。だから、ね」

後ろ盾 case 11


 「このステンドグラスはね、僕が唯一、先生に、『安心した』そう言ってもらえた作品なんだ」
「……。…………えっと、どういう」
「僕の描くものや、作るものには、『何も感じられない』毎日そんな講評を受けていたの」
「……君が通っていた、美術学校の話ね」
「そう。あの頃は、受験を通過するために、絵を描いていたよ。いつからか、自分の好きな色や、世界がどんなものかに、関心がなくなって、良い評価を受ける絵を描けるようになりたいという想いに、絵を描くほとんどの動機を吸い取られてしまった」
「つらいだろうね」
「そんな描き方をして、評価されることができていたなら、まだ、何かが救われたと思う。でも、そうはならなかった。反対に、僕は、何も感じられない絵を描く人間だと、強く知らされるようになった」
「今は? 私は昔の君の絵を見ていないけれど、今の君が感じているものは、少しわかるよ。」
「色音ちゃんだから、感じてくれるんだよ。きっと。……でもね、確かに、今は、もう誰かに認めて欲しいだとかいう風には、思っていないんだ。好きなものを、好きなように描いていたい」
「随分、健康的になったねえ。あきらくん」
「それは、色音ちゃんが、僕の他の部分も、受け止めて、認めてくれているからだよ。だから、絵が全てだと思わずに済むし、そのおかげで、僕は君という盤石な後ろ盾を感じながら、自由に、思いっきり絵を描くことができているんだよ」
「ふふ。光栄だなあ」


 「このガラスの作品はね、テーマが出されなかったんだ。それに、僕にとって、自由を感じられない、絵ではないから、どんなものを作っても、絵の評価には影響しない。そう思えたことで、自由に創造することができた。だからかなあ。出来上がった時に、『そういう感性があるのなら、それを持っていたらいい。少し、安心した』そう言ってもらえたんだよ」
「つらい坂道を登っている時には、道端に咲く綺麗な花に、気づくことは難しいね」
「目の前に、いつ終わるのかもわからない絶壁が覆いかぶさって、ただ地面の凹凸を見ながら、自分の汗のにおいと、呼吸の音に、五感を奪われてしまっていた。立ち止まれば、鳥の鳴く声や、葉の擦れる音、木漏れ日の暖かさ、湿った土の匂いを、感じることができたのに」
「きっかけが、必要なのかもしれないね」
「立ち止まっちゃいけないと思っていたの。何かに置いていかれる気がして、怖かった。休めば、もう前には進めなくなるような、錯覚をしていた」
「あきらくんには、のんびりと寄り道しながら歩いていてほしいなあ。疲れたら、ゆっくり休んでほしい」
「もう動きたくなくなっちゃうなあ」
「いいんじゃなーい? 誰も困る人はいないよ。私も、君が何をしても、しなくても、少しも困らない」


 あきらは寝室に入り、カーテンを少し開け、陽の光を感じながら、眠りについた。
 後を追うように、色音も。あきらの体温が上がっているのを感じながら、今日は家事をするまいと、心に決めた。それから、この人が起きるまで、このままこうしていようとも。

じぶんのことのように case 10


 「私、『何か言いたいことあるんじゃない?』って、君に聞いたことがないね」
「うん。思った時に、思ったまま伝えているから。必要な場合は時間を空けることもあるけれど」
「……そういうところを、いつも信用しているよ。君が何かを溜め込んでいないと、感じていることができるし、何かを言わないでいるにしても、それが、君自身や、私のことを考えてのことだって、知っているから、安心していられるの」
「なんだい色音ちゃーん……」
「それでも、イレギュラーな場合もあると思うからさ。念のため、言っておこうと思って。つまり、『どんな場合でも、君が、何を言っても言わなくても、君の意思がそうであるのなら、私はいつも、君のその気持ちを尊重しているから』そう言っておきたかったの」
「色音ちゃーんっ」
「大切な話だよ。ふざけないで」
「ふぇい……。わかりました」


 「僕が、今の言葉を伝えてもらって、君に言いたいことがあるのだけれどね」
「君も、そう思っていてくれているのでしょう」
「……ふふ。わかりますかあ」
「それはさ、私のこの気持ちは、君から学んだことだからね。君が、まず、私に対して、そういう信頼を持っていてくれたから。私も、同じ気持ちでいるってことを、伝えておこうと思ったの」
「ありがたいですなあ」
「お互いね」


 これまでに、何度、お互いの思いを、聞いて、伝えて、どれほどの言葉を、我が事のように感じてきたのか。2人がそれを思い浮かべるには、あまりに多くの言葉を交わした。それぞれが、想い人を正確に、いつも完全に理解しよう、などとは思っておらず、ただ、どんな時も、ありのままを受け止めて、ありのままを感じて、それを伝えようと、心に決めていた。


 どちらにとっても、生まれながらにそうであったかのように、自然のことであるので、口にする必要を感じていなかったが、時を同じくして、「確認しておかないことで、語弊が生まれる可能性があるのではないか」という可能性に至り、明らかに示しておこうと、行動するに及んだのであった。

みていてくれたそれだけで case 9


 「君が初めて手紙をくれたのっていつだったっけ」
「僕が入院した時だよ」
「だったね。驚いたよ。手紙をくれたこともそうだけど、その内容が、“入院しました”だったから」
「隔離病棟っていうところに入ったから。携帯含めて一切の物の所持を認められていなかったんだよ」
「社会から隔離されていたんだね」
「うん。でも当時の僕の言葉で言うと、隔離ではなくて、保護されている感覚だった。社会のあらゆる便利な生活の道具や身分を失ったけれど、代わりに、社会から受けるあらゆる苦悩やストレスから守られていたんだよ」


 「私はね、君が病院から届けてくれた手紙を読んで、初めて君の心で思う言葉を聞けた気がしたんだ。だから、私も本心で応えようと思ったの。そうしたら、考えずとも先に病院へ足が向いてた」
「嬉しかった」
「君の涙を見たのも、その時が初めてだったね」
「僕が何も話せずにいたら、そっと髪を撫でてくれた。それで思いのせきが切れたんだよ。本当に、寂しくて、怖かったんだ」
「私には想像の出来ないことだったけれど、当時のあきらくんの目は、私がそれまでに見た中で、一番色あせていたの。その目から背けたらいけない気がした」


 「そう。僕を見てくれていたんだ。ただ僕を。それだけで、心が。救われたんだ」
「もっと早くに、気が付くこともできたかも知れないって、あの時は思ってた」
「僕は、気づいてもらいたくはなかった。ずっとずっと沈んで行って、底までいけば、何かが見えてくる気がしていたから。怖いのは、今の自分が、どこまでの深さにいるのかが分からないからだと、あの時は考えてた」


 「冬、だったね」
「うん。君はおしゃれだから、お見舞いに来てくれるときに、今日はどんな風なんだろうって、わくわくしてたよ」
「そんなこと考えてたの」
「ん……うん、まあ」


 「ふう……。手紙の整理はまた今度にするよ。今日は何か、ご馳走を作ろう。あきらくんの好きなものを、2人で」
「うん」


 入院の前後と、退院後のこれまでの記憶は、あきらにとってはありきたりなものではなく、多くが苦痛を共にしなくては語れぬものである。しかし、色音の口から生ずる言葉で紡ぐ思い出は、不思議と心を揺らすことなく語られたのであった。

彼のおもいを濁さないように case 8


 「しのたん」
「……ん」
「お願いしたいことがあるのですが」
「うん」
「今から少し外を歩こうと思うのだけど、一緒に歩いてくれやしないだろうか」
「わかった」
「ありがとう」


 しのは喜んでいた。だがその感情を表には出すまいと注意していた。きっとそれがあきらに伝われば、彼が少なからず気を負うであろうと察しているからだ。
 出来る限り平生の口調と表情を保つように振る舞うしのの思いに、あきらが気づく様子はないが、それはきっと、彼の頭にそれの浮かぶ余地がないからだと、しのは考えた。


 「雲がかかってないから、月明かりだけでも歩けるねえ」
「うん。僕はこのくらいの明るさが一番好きだよ」
「……」


 一呼吸の間の後、二人は同時に準備運動を始めた。しのにとっては、運動の準備でしかない動作であったが、あきらにとってのそれは、精神的な準備を兼ねたものであった。
「よし。いこっか」
「おっけい」
「あ……」
「ん?」
「えー……と。きつくなったら、帰っても、いい、かな」
「うん。そうしよう」
「へへ」


 しのはあきらが自身の精神状態の悪化を想定して、現実的に相応しい対応を、偽りなく提案してくれたことに喜んだ。一方で、あきらは言葉を重ねることなく快諾してくれた、しのの理解に感謝していた。


 「いい顔してるなあ。あきらくん」
 久しく見ていない程の心地よさそうなあきらの寝顔を見て、しのは心から今日の終わりに安堵した。彼が流した汗が、いつか、どこかで実を結んでくれたら、そう願って、しのも眠りについた。寄り添う彼の髪を、優しく指で解きながら。

わからなくていとしい case 7


 「へー。こりゃあ、大工さん泣かせだねえ。あきらくん」
「そんなにかい」
「やあ、大したもんだよ。半信半疑だったんだけどね。君がそれくらいなら作れるって言った時は」
「うん。僕もそう言ったけれど、自信はなかったよ」
「えっ。そうなの。怖いなあそれ。そんな風には見えなかった」
「学校で習う数学ってさ、順序良く段階を踏んで学べば、高卒まではなんとか出来ると思うんだよ。で、木工に関して、僕は独学で中学校レベルまでは習得していると思っていてね。だから、次点の高校レベル、つまり、この僕らの部屋の開き戸を作り変えるレベルなら、なんとかなると思ったんだ」
「あー。まあ。そうなんだ」
「ひやひやしてた?」
「少し」
「ふっふ」
「で、色はどうすんの」
「いい質問です。色はしのたんと考えます。こちらのパレットから絞っていこう」
「おお。いいねえ。パッと見の色の印象だけで、既に素敵な未来を想像するに易いよ」
「僕もそんな気がして胸がいっぱい」


 しのとあきらが生活を共にするようになってから、二年が経とうとしているが、二人の間には果てもない未知の発見の旅が続いている。お互いの人間の外郭を薄っすらと捉えてはいるものの、未だに相手の見えない部分の形にまで、目の届かないことを、二人は常々楽しんでいる。


 「本当に君はわからない人だ」
 しのが呟いた。
 「僕も君のことをそう思っているよ」
 あきらが嬉しそうに応じた。
「そこですなあ」
「ん……ですな」
 両人が「(そこが)好き」とまで言葉を発しなかったことと、その背景にある感情を、二人は時を同じくして理解し合った。

日記 case 6


 なにやら珍妙なる大きな物体があきらくんの部屋に置いてあったので、何かと思えば、巷で話題の「セグウェイ」なるものであった。
 なぜ買ったのかと尋ねると、「散歩のため」だそうで、それを耳にした時はさして気にも留めなかったけれど、散歩は自分の足で歩いて散歩と言うのではないかと少し疑問に感じる。
 彼のことだからきっとその辺りの定義は問題ではないのだろうと今は思うけれど、近所の方々からすれば、体を自在に運ぶことのできる小型の機械に乗って徘徊……否、散歩をする彼を不審に思うかも知れない。
 ともあれ彼が外に出ようとしているモチベーションをふいにするようなことはしたくない。言いたくもない。


 そう。外に出る。あきらくんが外をあ……歩く……かな。歩くだ……な。歩こうとしている。それが彼にとってどれ程の勇気と気力を必要とすることかは想像の及ぶものではない。
 私はただ、彼がセグウェイでの散歩を続けられなかった時に、彼のそばにいてあげる。それだけでいい。
 一度もセグウェイを持って外に出なかったとしても、それでいい。彼はもう進んでいるのだから。
 だってセグウェイって、四、五万円するよね。それを買うことは並の決意ではないと思う。
 それはそうと、あきらくんのあのお金はどこから出ているのだろうか。以前、話に聞いた仕事の様を成していない仕事は順調だろうか。彼が働いている様子は見れていないけれど、それは然程気にならない。


 最近、少し楽しそうな彼の横顔をよく見る。私はそれがなによりも嬉しい。
 のんびり。ゆっくりやってほしいな。

 ファイトだあきらくん。

わが身に映る君を見る case 5


 他ならぬ自分の為に、愛する人が珈琲を淹れてくれている。その光景を眺めながら、あきらは、形容しがたい不安に襲われていた。
 28年余の人生を振り返り、小さく積み重ね、拾い集め、漸く自身のあるがままの姿を、捉えて認めることが出来るようになった。そんな少しの慢心に依存することで、彼は解れた綱を渡るように、しのとの生活を享受している。
 もしその慢心が泡と化したならば、たちまちに、彼の信じているものの多くが、あっていてもないものとして、認められるようになる。
 彼は、それを何よりも恐れているのだ。


 「あきらくんの考えていることを、分かる、とは言わないよ。けれど、似たような気持ちを、私も感じることがあるよ」
 あきらは思ったことを、なるべく思った時に、そうでなくとも出来る限りその気持ちの薄れる前に、しのに伝えるよう努めている。
「僕は、自分の、しのたんに対する温かい気持ちを、自分の血とか体温や、こころで感じられるんだ。だから、それが確かなものだってことに、疑う余地がない。けれど、君がこころで感じていることを、僕が、そっくりそのまま感じ得る術はないと思っているんだ」
「そう。それはそうだね。わかるよ。どういうことか」
ほのかに灯っていた、しのの目の光が、わずかに弱まったのが、あきらには見えていた。
「ただね、しのたん」
「ん……うん」
「君のこころの在り様を、僕は感じることが出来ない。それで、いい。それがいい、と思うんだ」
「どういうこと?」
「知りたいことを知ることが出来なくて、恐ろしくなるのって、仕方がないと思う。だから、一番恐ろしいことは、“知りえないことが不幸だ”と思ってしまう気持ちだと思うの」
「うん」
「しのたんのこころの在り方を、しのたん自身が大事に思っていてほしいと願っている僕だから、僕自身のこころの在り方も、僕が一番大事にする。それが、僕にとっては、君と丁度良く生活するための要なんじゃないかって、考えているんだよ」

 しのは言葉を追わなかった。自分が長く、あきらと同じ不安を抱いていたことを、胸に秘めながら、どうしてこれ程に、目に見えないところが重なっているのだろうかと考えた。そしてそれこそが、彼の体温を感じる大切な渡し舟なのだろうと心に得たのであった。

プロフィール

日木 心(ヒノキ アキラ)

Author:日木 心(ヒノキ アキラ)
消して訪れないと、確信できる未来ほど、鮮明に強く文字に表わせられます。


憧れて、あきらめていること。

起こりえないと知っていることが、ここでは起きます。


そのためだけの、記録の場所です。