わが身に映る君を見る case 5


 他ならぬ自分の為に、愛する人が珈琲を淹れてくれている。その光景を眺めながら、あきらは、形容しがたい不安に襲われていた。
 28年余の人生を振り返り、小さく積み重ね、拾い集め、漸く自身のあるがままの姿を、捉えて認めることが出来るようになった。そんな少しの慢心に依存することで、彼は解れた綱を渡るように、しのとの生活を享受している。
 もしその慢心が泡と化したならば、たちまちに、彼の信じているものの多くが、あっていてもないものとして、認められるようになる。
 彼は、それを何よりも恐れているのだ。


 「あきらくんの考えていることを、分かる、とは言わないよ。けれど、似たような気持ちを、私も感じることがあるよ」
 あきらは思ったことを、なるべく思った時に、そうでなくとも出来る限りその気持ちの薄れる前に、しのに伝えるよう努めている。
「僕は、自分の、しのたんに対する温かい気持ちを、自分の血とか体温や、こころで感じられるんだ。だから、それが確かなものだってことに、疑う余地がない。けれど、君がこころで感じていることを、僕が、そっくりそのまま感じ得る術はないと思っているんだ」
「そう。それはそうだね。わかるよ。どういうことか」
ほのかに灯っていた、しのの目の光が、わずかに弱まったのが、あきらには見えていた。
「ただね、しのたん」
「ん……うん」
「君のこころの在り様を、僕は感じることが出来ない。それで、いい。それがいい、と思うんだ」
「どういうこと?」
「知りたいことを知ることが出来なくて、恐ろしくなるのって、仕方がないと思う。だから、一番恐ろしいことは、“知りえないことが不幸だ”と思ってしまう気持ちだと思うの」
「うん」
「しのたんのこころの在り方を、しのたん自身が大事に思っていてほしいと願っている僕だから、僕自身のこころの在り方も、僕が一番大事にする。それが、僕にとっては、君と丁度良く生活するための要なんじゃないかって、考えているんだよ」

 しのは言葉を追わなかった。自分が長く、あきらと同じ不安を抱いていたことを、胸に秘めながら、どうしてこれ程に、目に見えないところが重なっているのだろうかと考えた。そしてそれこそが、彼の体温を感じる大切な渡し舟なのだろうと心に得たのであった。

あるがままのふたりは case 4


 「――働くの?あきらくん」
「えっ。……なんで……?」
「ん。机の上に置いてあったあれ。税務署宛ての」
「……見ましたか」
「はい」
「……」
「あ。だめだった?ごめん」
「いや。大丈夫」
「無理せずに出来そうかい?」
「んー。なるべく精神の健康を損ねることなく続けられる様な、仕事っぽくない仕事の在り様を目指しているよ」
「ほー。よさそうだね」
「うん。なんとか。やってみるよ」
「後ろ盾はあるから心配しなさんな」
「しのたん」
「ん」
「ありがとう」
「公園でも行くかー。天気いいし。私お弁当作るよ」
「……」
「どうしたの」
「帰りにさ。ちょっと寄りたいところがあって」
「うん。どこ」
「あのほら、しのたんと初めて……」
「あそこまだやってるの?」
「やってる。この前調べたの」
「はー。てっきり、つ……。そうかーやってるのかー」
「いい?」
「うんっ。私も行きたい」


 吹いては枯れる、公園の緑の循環を、ふたりは幾度も傍で見ている。
木漏れ日と葉の揺れる音。頬を撫でる風が心地よく、後の予定を思い出す頃には、陽の弧が山に落ちていた。

敬意と不問 case 3


 「ねえ」
「……んっ。どうしたの」
隣で横になっているしのは、てっきり寝ているものと思っていたので、あきらは少し驚いた。
「明日のお祭り。やっぱりいかない」
「そう」
「……あきらくんってさ、いつも理由とか聞かないよね」
「そう……だね」
「興味ないの」
「話してくれる時は、僕が聞かなくても話してくれると思ってるから。言わないのはそういうことなのかなって」
「ん。まあ。そうだね」
「どうしても聞きたい時は聞くよ」
「今は?」
「しのたんが“行くのやめようかな”って言っていたら、理由を聞いていたかも。でも、“いかない”って言ったよね。しのたんが考えて自分で決めたことだから、そのままそれを尊重したいと思ったよ」


 しのは暫く口を閉ざし、振り向いてあきらの目をじっと見た。
「おやすみ」
そう言って頬にふんわりと口をつけ、眠りに就いた。

 あきらはしのと話す前にしていた考えごとの続きを始めようとしたが、頬に残る感触が心地よくて、次第に意識が薄れて言った。

珈琲のある画廊 case 2


 「あきらくん。僕はこうして君の絵を描く姿を見ているとね、なんだかこころが温まるんだよ」
「そっか」
滲み出る嬉しさを隠すように、あきらは微笑んだ。
しのが自らを“僕”と称する時は、概ね気分の良い時であることを、あきらは以前に本人から聞いて知っている。
「やっぱり君の描くものはよくわからないけれど、まあそれは君の絵に限ったことではないが、何となく好きなんだ」
あきらは、「ありがとう」と言わんとする口を抑えて、眼前の愛しい人の頭を撫でた。
「……なんなのさ」
しのが困惑しながらも、照れているのがわかった。
「しのたん頼みがあるんだが」
「なに?」
「何か飲むものを作ってくれんかね」
「承知した。しばし待て」
「かたじけない」


 台所から流れる彼女の鼻歌が、アトリエにまで心地よく響く。
(この歌好きだなあしのたん)
(もしかすると、しのたんの緩んだ顔が見たくて、僕は絵を描くのかも知れない)
無論、あきらは元来より好んで絵を描くが、自身の純粋な意欲のみでは、こころから楽しいと思えない性分を、かねてより自覚していた。
「おまたせ」
迷い込んだ風が、アトリエを珈琲の香りで満たした。あきらは、なんだか懐かしい気持ちがして、しのと出会った画廊はまだやっているのかと、やっているのならもう一度行ってみようかと考えた。

意識の共有 case 1


 「私、男性だからって、男性だから女性を守らなきゃいけないっていうのって、あまり好きじゃない考え方なの」
「どういうこと?」
少し間をおいてあきらは尋ねた。
「あきらくんはずっとそうやって、車道側を歩くよね。私と外を歩くときにさ」
「うん」
「どうして?」
「そうしていないと、しのたんが危険を被った時に、僕は後悔で心が押しつぶされるよ。それに――」
「それってさ! ……ごめん。それに、なに?」
「……それに、しのたんはさっき、“男性だから”って言ったけれど、僕は勿論男さ。でもそれが理由ではないよ。君が傷ついたときに、僕もとても、とても傷つくんだ。僕はそれが、怖くて仕方がない」
「あきらくんが、傷つかないために、私を……?」
「そう。なんだか、自分勝手な理由だけど」
「ううん。私は、そういう理由の方がよくわかる。その方が、嬉しい」
あきらは安心した。しのの顔が緩んだのがわかったからだ。


 「お腹すいたね」
しのが思い出したように呟いた。
「今日はどっちが作ろうか」
「うー。私は今日気分じゃないなあ」
横目で訴えるしのの顔を見るまでもなく、あきらは自分が作る決意を固めていた。
「なにかリクエストはありますか?」
「聞いちゃいますかー?それをー」
しのの顔が明るんだ。
「ばっちこーい」
「よーうし。…じゃあー…カレーで」
「カレーですかー。なるほど。ふむ。よいではありませんか」
しのとあきらは、二人きりで会話をする際に、本人たちでさえ図りえないタイミングで、唐突に他人行儀な口調へ移り変わる時がある。二人がこの癖の起源を探すことはこれまでになく、恐らくこれからもない。

プロフィール

日木 心(ヒノキ アキラ)

Author:日木 心(ヒノキ アキラ)
消して訪れないと、確信できる未来ほど、鮮明に強く文字に表わせられます。


憧れて、あきらめていること。

起こりえないと知っていることが、ここでは起きます。


そのためだけの、記録の場所です。